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夕陽ヶ丘

夕陽之丘

御宿是名曲「月之沙漠」的發源地

「御宿ってこんな所」のコーナー
  御宿是這樣一個地方
 
 黒潮洗う太平洋に面した、房総半島は東側の外房御宿は、面積にして約25平方キロメートル、一辺5キロの小さな町です。
面對著黑潮流過太平洋,房總半島東側的外房御宿是一個面積約25平方公里、每邊5公里的小鎮。

 

40数年前に、当時の御宿町と、浪花村の半分と布施村の半分が寄り集まって、今日の御宿町が出来上がりました。
經過四十幾年,現在的御宿町是由一半的浪花村與一半的布施村合併而成的。

過疎化の流れを受けて人口の減少が続いていましたが、大規模なリゾート住宅開発
により、都会からのリタイヤー移住人口により、減少がくい止められています。
雖然人口外移嚴重而人口持續減少,但是因為大規模度假建設之開發,使大量的都市退休人士移居於此而減緩了人口外移的速度。

大地農園は旧布施村に位置しており、合併時の布施村の村長は、先々代の大地重直が勤めていました。
位在舊布施村的大地農園,其村長世世代代在此務農。

 3つ寄り集まった町と村は、それぞれにはっきりと特色がありました。
 三個相連的村落發展出各自的特色。

純農村の布施。純漁村の浪花(岩和田地区)。そして商店街からなる町部の御宿です。わずか25平方キロの町で、漁村部の言葉(方言)、農村部の言葉、そして標準語とが
使われており、3地区から生徒が集まる中学校では、3カ国語が交錯しているような感
じでした。
農村的布施。漁村的浪花(岩和田地區)。以及從商店街發跡成村落的御宿。僅僅25平方公里的小鎮,有漁村的方言、農村的方言、以及標準話(東京腔)被當地居民使用。聚集來自三個地區學生的國中裡,不時會聽到三種語言交錯。

今でもお年寄りは、自分の地区の言葉を話しますが、だんだんその方言も使う人が少
なくなっていくのは寂しい物です。
就算是現在的老人家,雖然也會說自己所在地區的方言,但是很可惜的是,會說方言的人越來越少了。

3つの言葉があると言うことは、言い換えれば3つの文化があると言うことです。
こんな小さな町で3つの文化が混在し、なおその上近年は、リゾート住宅地への都会
からの異文化が加わり、そして海と山の恵みが居ながらにして享受出来るという希有な
町です。
說是有三種語言,其實就是擁有三種不同的文化。這個小鎮上同時存在著這三種的文化,以及因為度假建設的開發而帶來外來地區的文化,再加上能夠享受青山綠水,可說是非常珍貴的小鎮呢。
 
 ◆ 「月の沙漠」発祥の地
          月之沙漠的發源地

 大正ロマンの作家の一人に加藤まさおがいます。
   大正的浪漫派作家的其中一人,加藤正男。

挿し絵画家としていっせいをふうびした彼が結核を患い、その病気療養のために滞在した御宿の海岸をモチーフにして書いた詩が、童謡として唱い継がれている「月の沙漠」です。各地に、「我が町の砂丘こそが“月の沙漠”の発祥の地だ」という話があります。
確かに御宿海岸の白い砂浜もすばらしいものです。
身為插畫家風靡一時的他因為罹患了肺結核,為了養病來到這個小鎮。以御宿的海岸為靈感所寫的一首詩,改編成童謠後為後世所傳唱,也就是「月之沙漠」。在各地也有很多人宣稱:“我們鎮上的沙丘正是月之沙漠的發源地哦”。確實御宿海岸的白色沙灘是很不錯
的。

しかしタイトに注目してみれば分かりますが、砂漠という字が、‘砂’ではなく‘沙’です。
これは次のことを意味しています。ラクダが渡っていくのは砂浜ではなく、月の光に照らされて金色に輝きながら、次々にうち寄せる波の連なりの事なのです。月の明るい夜、御宿海岸の砂の丘に座って海を眺めると、詩人加藤まさおの書いた「月の沙漠」の世界がそこに広がっています。
但是只要注意看標題就能夠明白,砂漠一次中,寫的是“砂”,而不是“沙”。
以下就來解釋原因。
駱駝所橫渡的不是沙灘、而是因月光照射閃爍著金色光輝、接連滾滾而來的海浪。
在月光照亮的夜裡,坐在御宿海岸的沙丘上眺望著海,詩人加藤正男筆下月之沙漠的世界就在眼前浮現。
 
 
王子とお姫様
王子與公主
http://www.daichi.nu/gansotukinosabaku/rakudakage.JPG


「月の沙漠」記念館
「月之沙漠」紀念館

http://www.daichi.nu/gansotukinosabaku/kinenkanhana.JPG



***

◆ 日西墨記念塔
    日西墨紀念塔

 関ヶ原の戦いが済んでまだ間もない頃、御宿海岸の岩磯に、一隻の外国船がうち寄せられました。当時スペイン領であったフィリピンからメキシコに戻ろうとしていた、メキシコ総督一行を乗せた船でした。激しい嵐に痛めつけられ、難破・漂流していたものですが、海女漁を中心に、海で生活をしていた岩和田地区の漁師が総出で救助をしました。一ヶ月近くの現地での生活の後、当時の領主であった大多喜城経由で、駿府の徳川家康の元へ向かい、後にメキシコに送り届けられたということを記念して、海岸を見下ろす小高い丘に記念塔が建てられています。
關原之役才剛結束沒多久,在御宿海岸的岩磯有一艘外國船靠岸。
船上是墨西哥總督一行人。他們從當時還是西班牙殖民的菲律賓出發準備返回墨西哥。
雖然因劇烈的暴風而遭遇海難、漂流,受到岩和田地區臨海為生的海士、海女們的全力相助而獲救。
在當地滯留了大約一個月的時間之後,透過當時的領主大多喜城的引見,前往德川家康位在駿府的根據地,
並將他們平安送回墨西哥。為了紀念此事,在可以往下跳往海岸的小山丘上建立了一座紀念塔。


 嵐に打たれ冷え切った難破船の遭難者を、海女達が肌で暖めて蘇生をさせたという言い伝えがありますが、この地区には、彫りの深い、日本人離れをした顔立ちの人が見受けられます。まさに国際交流の事実が刻まれています。
    雖然有海女們以自己的身體來為受寒的遇難者們取暖一說,事實上在這一帶,經常可以見到有別於日本人、五官深遂的臉孔。
也證實了國際交流這個事實。
 

日西墨記念塔(メキシコ記念塔) 

日西墨紀念塔(墨西哥紀念塔)

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メキシコ塔由来記 

寫著墨西哥塔由來的看板

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メキシコ塔からの遠景(夕日景勝地) 

從墨西哥塔看過去的風景

http://www.daichi.nu/gansotukinosabaku/kinentouenkei.JPG

 

 資料來源:御宿は、名曲‘月の沙漠’発祥の地